2009年11月14日土曜日

デザインされた著作か?

デザインされた著作か?
相島雅樹

 ロジェ・カイヨワはフランスの社会学や文芸に親しみ、遊びや聖をテーマに著述した人物であり、斯界の権威、アカデミー・フランセーズにも名を連ねた。
彼には、シュルレアリストたちと決別したときの有名なエピソードがある。南米かどこそこの、飛び跳ねる木の実であったと思うが、不思議なお土産をまえにカイヨワはアンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちにその木の実をあけて、原理を知ることを主張した。ところがシュルレアリストたちはそれを拒否する。面白いものの正体を明らかにしては面白くない、という主張である。こうしてカイヨワはシュルレアリスト・グループから去った。

 棚橋氏はカイヨワを、遊びには制度があり、制約がなければ遊びは遊びとして成立しない、と引く。つまりデザイン思考は、制約のなかに自由な発想を生むための仕事術なのだ、ということだろう。では、博覧強記で知られる知識人カイヨワがクリエイティビティを実践する立場であったかといえば、一抹の疑問を投げかけたい。加えて、ラテン語を中心にした言語思考のピエール・クロソフスキーによる小説に標準フランス語の誤りを指摘して、その受賞に反対したカイヨワには、規範意識の強さをイメージせずにはいられない。シュルレアリストとの対比でいえば、創造性を発揮する態度とは離れた学者としての視点が強く感じられる。

 シュルレアリストには、北米ネイティブ・アメリカンのホピ族による工芸の収集や南米との交流をとおして、文化人類学が持つフィールドワークの手法と似た活動をしているが、その態度はあくまで学術的なものとは言い難い。しかし、彼らの作品にはカイヨワにはあまり感じることのないユーモアをある表現が見られる。

 IDEOの著作にみられるバランス感覚、クリエイターと学者態度の均衡と比較すれば、棚橋氏の『デザイン思考の仕事術』には、ユーモアを欠いた方法論重視の態度を感じる。巻末で「デザインしすぎないこと」と章が割かれているが、それは書かれるだけでなく、デザインされた著作として示されるべきではないか?ひとが自然とそう行動してしまうような、負荷のない動きへの働きかけこそが重要なデザインの役割なのだから。(と、書いているこの文章はデザインされているのだろうか?)

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書評『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』

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